第4部「生きている御書の心」制作担当より 宮沢賢治 高山樗牛 土光敏夫 上原専禄

このコーナーでは、第4部「生きている御書の心」を担当した若き制作スタッフの声をお届け致します。

継命新聞」より転載/写真は図録「日蓮聖人の世界」より

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◆宮沢賢治担当


1、聖人展について

 私はこの度の日蓮聖人の世界展開催に当たり、第4部、生きている御書の心−日蓮信仰者の群像−の中の「宮沢賢治」という人物を担当させて頂きました。
 奈良展と東京展が開催され、力不足で思うような展示が出来得たか不安が募るばかりですが、この度の聖人展を通して貴重な経験や勉強をさせて頂きましたこと、大変有難く感じております。

 さて、ご案内の通り、この度の聖人展は、信仰者は基より広く一般の方々に、大聖人のご生涯にふれていただこうという趣旨のもとで開催されました。
 そして、歴史的考察をふまえて等身大の大聖人を紹介することで、かたよった見解や誤った大聖人観への一つの問題提議にもなり、史実に基づく大聖人の実像、そして思想を再確認する大切な役割をも有しております。
 そしてそのことは、様々なセクトが存在する現在に、相互理解を深める上で必要不可欠な作業でもありましょう。
 そういう意識の上に立ち、第四部では、法華経や大聖人の思想を心の糧として、様々な分野で活かし、教えに近づこうと邁進する生涯を送られた人の具体的な法華経実践法、大聖人観を紹介し、そこから何か学び取っていただければとの思いで制作を進めて参りました。

 
2、宮沢賢治ー「雨ニモマケズ手帳」からー

 聖人展で取り上げた、宮沢賢治という人は、生前全くと言っていいほど無名の人でありましたが、現在は、文系大学の卒論で取り上げる学生が多い程、知名度は年々増しているようです。
 賢治の作品の中では、『雨ニモマケズ』を思い出される方が多いと思いますが、意外とこの詩が法華経に裏打ちされた誓願であることを知らない人が多いと思います。
 この『雨ニモマケズ』を書いた頃の賢治は、病に臥せており、病床で自らを反芻し、回復したらこのように生きたいという切実な心境であったと考えられます。

 実際に手帳をひもといてみますと、そこにはたくさんのお題目や不軽菩薩といった法華経ゆかりの諸菩薩が書かれております。
 この不軽菩薩は大聖人様が「日蓮は是法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」(『聖人知三世事』全九七四頁)と誓願されておりますように、当家において重要な菩薩であることは言うまでもございませんが、その行いは、ただ人に向って礼拝して「我深敬汝等 不敢軽慢 所以者何 汝等皆行菩薩道 常得作仏」という二十四字を唱えながら衆生の心に宿る仏性を拝する修行されます。礼拝された人は気持ち悪がって石や木を投げながら罵ります。しかし、不軽菩薩は逃げながらも二十四字を唱えて礼拝行を続けると経文には説かれております。
 一見すると単純平易な修行のようですが、これほど仏教の神髄に徹した行道はないでしょう。どのような人でも仏性は存在するという平等観を教え、良いところを伸ばしていきなさいというおおらかな慈愛の精神もその行体から容易に感じられます。

 『雨ニモマケズ』が書かれた手帳の中には「不軽菩薩」という詩句が見られ、「あるいは瓦石さてはまた 刀杖をもって迫れども 見よその四衆 に具はれる 仏性なべて 拝をなす」と書かれています。
 更に同じ手帳に「土偶坊」という戯曲のメモがあり、最初に「ワレワレハカウイフ モノニナリタイ」と記し「土偶ノ坊 石ヲ 投ゲラレテ遁ゲル」という場面が考えられていて、不軽菩薩とデクノボーのイメージが賢治の中で重なり合い、『雨ニモマケズ』最後の「ミンナニ デクノボート ヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフ モノニ ワタシハ ナリタイ」との切実な誓願となったことは容易に推察されましょう。
 不軽菩薩に刀杖投石の迫害を加える人を上慢の四衆といいますが、賢治にとっては農民がそれに当たると考えていたのかも知れません。

 賢治は経済的にも有力な家の出です。安定した教職の道を退職し、自ら農民として苦楽を共にしようと自炊生活を始めるわけですが、農民達にとっては単なるお坊ちゃんの道楽としか写っていなかったようです。
 こんなエピソードも残っています。賢治が自分で作った野菜や花を町までリアカーを引いて売りに行きます。当時の農民はリアカー一つもっておらず、逆に反感を買ってしまいいっこうに売れなかったそうです。
 慣れない農民生活に悪戦苦闘する中、賢治は生活が苦しい農民達を励ますかのように、音楽や演劇を教えたり、無償で農地改革の指導講習会を開いたりと化他無償の生活を送ります。
 賢治が農民と共に生きていく決心をした頃書かれた『農民芸術概論』に、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という一行があります。
 賢治は、世の中全体を鑑み、しかも苦しい思いをしている農民に目を向け、一緒になって頑張っていこうとの熱い情熱を、法華経や大聖人の思想が支えとなって、生涯を世のため人のために邁進されたのでしょう。その姿、精神は、天台大師の「一隅を照らす」思想や大聖人が農民に対して和字をもって接した慈愛の精神を彷彿とさせます。

 法華経不軽品には「爾の時の常不軽菩薩は豈に異人ならんや、即ちわが身是れなり」と説かれ、不軽菩薩が釈尊の前世の姿であることを説き、大聖人は「彼の二十四字と此の五字と、其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ」(『顕仏未来記』全五〇七)とされ、賢治はそのご教示に感泣したにちがいありません。
 手帳には「厳に日課を定め 法を先とし 父母を次とし 近縁を三とし 農村を 最后の目標として 只猛進せよ」と書かれ、病床にいながらも前向きな強い精神力には、ただ驚くばかりでなく、信仰的な円熟が垣間見られます。

 
3、童話の世界

 さて、生涯貫き通した「皆と共に」の生活信条は、賢治童話の中でも活かされております。
 賢治の童話を見ると、「私」「自分」「あなた」といった一人称が少なく、逆に「みんな」「私たち」「われら」といった複数名称が多いことに気がつきます。
 そのことは、自己中心主義に陥らないよう常にみんなの幸福を願う賢治の思想(法華思想)が盛り込まれています。
 更に、動物が主人公となって人間社会を映しだしていく手法が使われ、人間中心主義からの脱皮を促しているものが多く存在しています。

 賢治自らも童話を「法華文学」と称しているように、法華経に説かれる生命の平等観、慈愛の精神を、しかも子ども達が理解出来るように童話という形で表現し、不特定多数の人に法華経の心を知ってもらおうとしたのでしょう。
 その純粋な弘通の志が、自然に現代人の心をつかみ、共感を得られた一つの要因となっていることも否めない事実でありましょう。

4、われはこれ塔建つるもの

 また、賢治は晩年、次のような詩を残しております。

 「手は熱く足はなゆれど 
  われはこれ塔建つるもの
  滑り来し時間の軸の
  をちこちに美ゆくも成りて
  燦々と暗をてらせる
  その塔のすがたかしこし」

 柔軟で普遍的な法華経、大聖人の思想が、時代的、セクト的な枠を越え、活きた教えとして存在していることの裏付けが、他でもない自身の心によるものであるという自覚を端的に表した力強い一節ではなかろうかと思います。
 一人一人の存在を活かしていく法華経の教え、大聖人の仏法を、賢治は実践をもって理解し、求道者から死して弘通者として、どんな分野でもどのような人でも無間に広がる法華経実践の可能性を今なお私たちに問いかけているような気がします。

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◆高山樗牛担当


 この度、正信会では立宗750年の慶讃事業として「日蓮聖人の世界展」を開催しておりますが、私は制作委員として四部「高山樗牛」担当としてお手伝いをさせていただきました。実際には、情報収集、「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」とのテーマの決定、図録及び展示パネル・展示品の内容構成、取材、執筆、レイアウト、後は修正及び校正です。これらの制作作業にあたっては当然のことながら会内外を含め、さまざまな方々の協力なしには出来ないことであり、とても感謝しております。

 正確には覚えておりませんが、きっかけは奈良展の一年程前に依頼を受け、二つ返事で承諾したことです。今思うと、報恩の為というよりは、その計画の凄さ、そしてなにより知的好奇心だったような気がします。その思い通り、さまざまな体験を得ることができ、いろいろなことを学ぶことが出来ました。約一年、決して楽に作業ができたということはありませんが、その分これらの経験は自らの宝として認識しております。

 さて、既にご承知のとおり、第四部では自らの生きる指針を法華経や大聖人の信仰に見出し、かつ、近現代においてさまざまな分野で活躍した、一般になじみのある著名人の信仰をテーマとしております。
 その中でも私が担当した高山樗牛は、「法華経」というよりも「大聖人」その人に惹かれた人であります。その著作から論文・評論、さらにはメモや手紙に至るまで、ほとんどが「樗牛全集」に掲載されております。ですからそういった意味では大聖人展のテーマに沿いやすく、研究もしやすかったと思います。
 その反面、次のような問題があります。
「樗牛全集」やその他、氏を論じた関連書籍は没後十有余年で次々と発刊され、版を重ねております。また、大聖人展で展示している通り、樗牛の自筆の書や「高山樗牛先生ゑはがき」まで、売られておりました。このことからもお分かりだと思いますが、樗牛は特に当時の若者に絶大なる支持を受けておりました。また、文芸評論家として樋口一葉・永井荷風らの作品の評論をしたり、森鴎外ら著名な作家と何回も論争を繰り広げておりまして、当時氏を知らないものはいないというほどの人でした。ところが現代では知名度がとても低く、歴史の教科書にもわずか数行しか言及されておりません。ですから、制作にあたり展示や図録では、限られたスペースの中でまず氏の説明から述べなければならず、それを如何に簡潔かつ正確に表現するか、頭を悩ませました。

 また、何を展示・掲載するのかという問題もありました。樗牛は当時は不治の病であった結核によって三十二年という短い生涯を終えましたが、氏の大聖人の信仰は、最後の一年ほどであります。ましてや闘病生活とのこともあり、始めから信仰にまつわる遺品が絶対的にに少ないということは予想できました。
 そこで資史料集めも含めて次の場所へ取材に行き、コンタクトを取りました。樗牛の生まれた山形県鶴岡市にある、「鶴岡市郷土資料館」「大宝館」「高山家」。また、氏の墓地がある静岡県清水市の龍華寺内「高山樗牛館」。そこで相談したのですが、そのような物は残っていないとのことでした。同時に樗牛が数多くの評論を執筆した雑誌「太陽」、その出版元である「博文館」にもコンタクトをとりましたが、大正12年9月関東大震災により八万八千余冊の蔵書は消失、氏の原稿も残っていないとのことでした。ですから「何を展示・掲載するのか」という問題は一番悩んだところです。

 さて、樗牛は明治四(1871)年、鶴岡に斉藤親信・芳の次男として生まれ、二歳で養子となりました。養子といっても樗牛から見れば伯父にあたる高山家であって、血縁関係はきわめて近かったといえます。斉藤、高山両家とも旧荘内藩酒井侯の下級藩士給人の家柄で、後に県の官吏となり、高山家の跡取として期待されて育ちました。その期待通り学業成績は優秀でありました。強い自我の持ち主であり、肩で風を切り歩き、顎を上げる癖があったのでしょう。友人からは「アゴ」というニックネームで呼ばれていたそうです。リーダー的存在であり、周囲から頼りにされる存在でありました。
 その気質は生涯変わることなく、自らの意志に任せてものごとを深く追求し、氏の書く論文は‘熱っぽく’、強い論調のものばかりであります。その気質ゆえか、ロマン主義・日本主義・日蓮主義と、鮮やかな思想転換を遂げました。

 信仰に関しては、七歳で日蓮宗本鏡寺学校に入学し、四ヶ月ではありましたが、養父の転勤までここに通学しておりました。そういった意味ではもともと大聖人の信仰に縁があったのかもしれません。とはいえ日蓮聖人へ本格的に傾倒していったのは晩年のことでありますから、やはり自分自身の病気と無関係ではなかったと思われます。
「日蓮研究の動機」には、御書(日蓮遺文)の「教行証御書」の文、「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」から興味を持ち始めたと書かれてあります。その六・七年後、結核の療養中に国柱会の田中智学から「宗門の維新」なる一冊の本の寄贈を受け、その強い論調を通して、日蓮聖人の豪快な表現に引かれ、信仰するに至ったのであります。

 天才と賞された樗牛にとって自らの力ではどうすることも出来ない不治の病、その失意のさなか、縁した御書によって自らを奮い立たせ、樗牛本来の姿をとりもどしたのでありましょう。それからは精力的に日蓮聖人研究に取り組み、あの膨大な御書を、数ヶ月で読破し、文体も大聖人のそれに似てきたほどです。そして「日蓮聖人とは如何なる人ぞ」「日蓮聖人と日本国」等、次々と執筆しました。

 ところで、樗牛の思想は、一見すると正反対のものに転換したようにも見えますが、そこにはある共通点があります。それは一言で言うと、「超越」だと思います。始めは凡人から天才へ、そして国家へ、さらにそれをも超越した仏法へと求めたいったのです。「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」とは、樗牛の亡くなる二ヶ月前に雑誌「太陽」の「無題録」の中で述べられたものですが、樗牛は始めから一貫してその姿勢をとっていたと言うことが出来るでしょう。それが、大聖人の仏法に出会い、樗牛の中で完成されていったのです。

 この「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」の「現代」とは、当時の軍国主義・物質主義の中で人の心が失われていった状況を指します。氏はこのような風潮を「現代思想界の悪風潮」といっておりますが、その悪風潮の中、博多東公園の「日蓮銅像建設運動」がおきました。これは軍国主義の中で交戦家に仕立てあげられた大聖人の祈祷により、蒙古征伐がなされたとの誤解の結果です。当然のことながら大聖人はその様な祈祷はされておりませんし、かえって悪教を盲信する国家は他国に滅ぼされて当然であるとまで仰せであります。樗牛もこのような状況を「近年元寇記念像と称し、日蓮の銅像を博多に建てむとする者あり、是れ亦蒙古調伏の妄誕に依拠せる妄挙のみ、無意義も亦甚しと謂ふべし、無智の俗人にして是の事ある、尚ほ姑く恕すべしとせむ。堂々たる妙宗の碩学相率ゐて是の没分暁の事を為す、鳴呼日蓮の世に知られざる、蓋し又久しい哉」と嘆き、明確に運動に反対しました。それとは裏腹に樗牛没後二年後の明治三十七年に「日蓮像」は建立され、その記念式典には樗牛に影響を与えた田中智学も参列し、戦勝祈願をしました。その大聖人の捉え方は、およそ樗牛のそれとはかけ離れたものといわざるを得ません。

 大聖人の「法華経の行者」としての国家諌暁。これを正しく理解した樗牛は、恐らくこれを「超越」と表現し、自信もそうありたいと願ったのだと思います。また、前述の通り、ここにきて樗牛の思想は完成したと思われます。
 自らの信念を貫こうとするとき、さまざまな障害、時にそれが国家という大きな障害であろうとも、大聖人の正しい仏法を信仰し、手本とし、勇気づけられながら、自らを奮い立たせて、前向きに努力する姿勢。この姿勢こそがまさに富士門流だと思います。宗開三祖以来七五〇年という歴史の中で、この姿勢をずっと持とうと努力してきました。ここでそれらを逐一取り上げる必要もなく皆様ご承知のことと思います。残念なことに樗牛は富士門流に縁することなく、生涯を終えたわけですが、氏のその姿勢を理解し見習って、我われの信仰というものの正当性を今一度確認できるかと思います。
(ちなみに、樗牛は当時の僧侶を「腐敗も極まれる哉」といっている。また、「余の好める人物」で大聖人を紹介し、「附」として日興上人に言及している)

 なお、来年は樗牛の没後百周年であり、九十九年前に書かれた氏の文章の中には、「立宗六五〇年」との語が確認できます。このことに因縁というか、ある種の面白を感じました。
 最後に、私の携わった展示や図録が一般には果たしてどのような評価を受けるか心配ではありますが、これが立宗七五〇年の御報恩・慶讃事業の一助となるならば、尽幸でございます。

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◆土光敏夫担当


 土光敏夫は第四部のなかでも明治生まれで大正、昭和時代を生き抜いた人ですから、聖人展の観覧者の方々にも、非常になじみ深い存在だったのではないでしょうか。
 彼の石川島播磨や東芝の社長としての功績は、松下幸之助とならんで高く評価されており、尊敬する企業経営者に土光敏夫氏の名前を挙げる人も少なくありません。また昭和五〇年代の経団連や臨調会長時に掲げた「増税なき財政再建」には、国民の多くが大きな期待を寄せていました。

 今回の聖人展では土光氏の法華経、日蓮大聖人に対する信仰の部分や、それに根ざした生き方などを、物品や写真パネルなどビジュアル的に表現していこうというねらいがあって、石播や東芝をはじめ、雑誌社、新聞社等へ写真借用の交渉、さらにパソコンの画像処理ソフトやスキャナを購入しての写真加工やレイアウトなど何事も初体験の作業でありました。

【取材で何度も橘学苑ヘ】

 横浜市鶴見区獅子ヶ谷に橘学苑という女学校があります。この学校は土光氏の母・登美さんが戦時中に日本の将来を考え、信仰に根ざした強い意志を持つ女性の教育に力を注ぐべきであると考え、七〇才の時に資金を集めて創立した学校です。
 登美さんはまた、宮沢賢治の詩が好きだったことから、農作業を授業に取り入れ、それは今もなお踏襲されています。表舞台で多忙だった土光氏自身も、母の死後、その意志を継いで校長を務め、その後は長男の土光陽一郎氏、長女の和田禮子女史もが校長の任にあたられていました。

 私も今回の聖人展で何度もこの学校に取材で足を運んでいます。特に和田禮子先生には、土光氏が使用していた御書や御経本、写真などを貸していただいたほか、全面的にご理解とご協力をいただきました。土光氏は昭和八年に亡くなった宮沢賢治と違って最近の人ですから、いくら諸機関から写真の使用の許可をもらっても、最終的にはご遺族の許可が得られなければ使用できないため、ご遺族から快く諸資料を提供していただいたのは、足を運んだ一番の成果でありました。
 この学校の道路をはさんで真向かいに、たびたびテレビでも放映された土光氏の自宅があります。今は誰も住んでおりませんが、一部を幼稚園の施設として使用しているほかは、土光氏の生前のままの形で残されています。

【土光氏の信仰】

 土光氏が信仰をされていたということは、業界では有名でありましたが、世間ではさほど知られていないようです。活躍の場が会社社長や政財界でありましたから、信仰について多くを語る場がなく、また聞く人もいなかったからでしょう。
 毎日、読経唱題を欠かさずに行なっていたという土光氏は、晩年に「ガキの頃から僕はずっと法華経を信奉してきた。が、残念ながらこの年になっても未だ安心立命の境地には至らない。不自惜身命の教えは何とか実践したつもりだけど」と話している通り、法華経を人生の拠り所とし、信仰に心の安らぎを求めていました。

 また八五才という高齢でありながら、国民のために日本を救おうと行政改革に立ちあがった行動力は、まさに不自惜身命の精神から沸きおこったといえると思います。
 そうした土光氏の生き方は両親(父・菊次郎、母・登美)の、中でも母の影響によるところ大でありました。兄弟もみな「敏夫が母にいちばんよく似ている」といっていたそうです。母・登美さんは、男まさりの実直な性格で、信仰熱心、研究心も旺盛で、一度実行しようと決めたことは、とことんやり遂げる、そんな人柄であったそうです。土光氏は故郷の岡山でその母に育てられ、信仰や性格が育まれていきました。

【会社再建への手腕】

 二四才で石川島造船所に入社し、エンジニアとしての道を歩んだ土光氏は、その手腕が認められ、四〇才で石川島造船所と芝浦製作所が合同で設立した石川島芝浦タービン社の技術部長に就任し、さらに五〇才の時には、同社の社長に抜擢されました。社長とはいっても、やることは戦後の大不況で経営難に陥った会社・工場の復活、言わば貧乏クジを引いたようなもので、立て直しのために奔走する毎日を送っていました。そこをある程度軌道に乗せると、その四年後には、未だ再建のおぼつかない親会社の石川島重工の社長になりました。

 播磨造船との合併で誕生させた石川島播磨重工業は世界一の造船会社となりました。一四年間社長を務めた後、今度は東芝の社長を引き受けることになりました。六八才でした。
 東京オリンピックが終わり、日本の産業が再び不況にみまわれ、落ち込み著しかった東芝を見事に活気に満ちた一流会社へと復活させました。

 世間では様々な危機を乗り越えてきた社長・土光氏には「ミスターダンピング」「ダボハゼ経営者」という悪評が立ったこともありました。確かに少々強引なところがあったのかもしれません。しかし土光氏の会社経営の理念は単に利益があがればよい、会社が儲かればよいというものではなく、社員の一人ひとりを「活かす」ということを一番の目的としており、上に立つものとして人の育成こそが会社を活かす道であると自ら語っております。

【社内報での土光後語録】

 東芝社長時代の社内報での語録をいくつか紹介します。

「いったん計画をしたものは万難を排して完成させよ。その中で人間形成ができる。」
「出来ない、無理、難しい、という先入主を払いのけよ。問題への態度がすべてを決する。」
「人間の能力に大きな差はない。あるとすればそれは根性の差だ。」
「人はその長所のみとらば可なり。短所を知るを要せず。」
「わかっていてもやらないのは、わかっていないのと同じだ。やっても成果がでないのはやらないのと同じだ。」
「自分と他者を比較するな。比較は自分自身とだけやればよい。」

 このように、能力とかではなくやる気をもって、それぞれが適材適所で存分に力を発揮せよ、ということを教えていました。この、必ずやり遂げるんだという不屈の精神が、後の行政改革でも基本精神でしたし、法華経、日蓮大聖人の精神にも通ずる人生の指針であったといえるでしょう。

【行政改革への熱意】

 昭和五六年、土光氏は八五才で臨時行政調査会会長として、一〇〇兆円の財政赤字を抱えた日本経済の再建という最後の大仕事に就きました。
 このままでは日本の将来は大増税と経済破綻を招くことになる、現在の一時的な安逸にふけるのではなく、一〇年先、二〇年先を見据えて、今こそ行政改革をやらなくてはならない、そう決断した土光氏は高齢をおして立ち上がりました。
 土光臨調の行革は政府が請け負っていた殖産興業をなるべく民間に任せて政府の負担を軽くする、そして民間企業を発展させることによって、赤字解消と国の活性化を図ろうというものです。つまり国が国民を面倒みるのではなく、もっと国民一人ひとりが自力をつけ、相互の信頼関係を築いていくことを目標としていました。

 しかし当時の鈴木首相が増税を発表するなど、政府は土光氏の政策を実行しようとはしませんでした。そして政府が拒絶したことにより矛先を国民へ変え、行革の必要性を一般市民に訴えようと国民運動を展開しました。
 しかし結局一〇年、二〇年先を見つめての改革は実現せず、二十年たった今、財政赤字は七三〇兆円に達しています。もし土光氏がこれを聞けば、あきれてモノも言えないというような現状となってしまったのです。

【質素な暮らし向き】

 土光氏の母は「社会は豊に、個人は質素に」と生前よく口にしていました。そして土光氏はこの言葉に「思想は高く、暮らしは低く」と付け加えており、私は土光氏の信念を一番よく表現している言葉としてタイトルに掲げました。
 昭和五八年にNHKが初めて土光邸の模様を放映し、夕食にメザシを食べている質素な暮らしぶりが紹介されました。収入のほとんどを橘学苑の運営費にまわし、自身の生活費は月一〇数万円と言われております。
 その姿は土光氏の行動が私利私欲によるものでなく、無私に徹し、国民のため、社会のために生きたということを物語っていたように思います。それは社長・会長・校長として、社員、国民、生徒のためにすべてを捧げた利他の心、不自惜身命の精神に基づく振舞いであったと思います。

 日蓮大聖人が他事をかえりみず、一切衆生に妙法を流布することに心血を注がれたお姿を、土光氏は手本としたのではないかと感じます。
 豊かな社会というのは、すべての人が科学・情報の進化に比例して物欲に満たされ何不自由のない暮らしができることであるように考えがちです。しかし戦後の物欲を追い求める風潮は様々な問題を引き起こし、かえって貧しい社会になりつつあると現代人は気付きはじめています。
 本当の豊かな社会とは一人ひとりが社会の一員として、社会のため、他の人々のために思いやりをもって、一所懸命ひたむきに生きるところに築かれるものであり、そこにすばらしい文化が創られると、土光氏は確信していたのだと思います。

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◆上原専禄担当


 「日蓮聖人の世界展」において『生きている御書の心』と銘打たれた第四部では、近・現代に斯界で活躍された四人の著名人を取り上げています。そのうち、これまでに宮澤賢治、高山樗牛、土光敏夫に関する資料の調査・収集、展示の制作・レイアウトに当たった担当者の苦心談が掲載されてきましたが、今回は最後に私が担当した上原専禄のことについて、少々書いておきたいと思います。

 上原専禄といっても、ほとんどの方はその名前すら初めて耳にすることでしょう。かく言う私も、実はこの課題に取り組むに際して、何らの知識も持ち合わせていない始末でした。
 彼は昭和二〇〜三〇年代、学会ではかなり重きをなした歴史学者です。また、昭和二十一〜二十六年までは東京産業大学(現一橋大学)の学長も務め、更に昭和三十五年の安保闘争には反安保の学者・文化人グループの思想的支柱と目されていた人物でした。その思想活動は単なる歴史学者としての範疇に留まらず、広く社会、文化、民族、平和、教育、宗教と非常に多岐にわたっています。
 しかしながら、死後二十五年を経過した現在では、彼についてほとんど耳にすることもありません。
 この状況によって、資料収集は大変な苦労を伴うものとなりました。

【制作に当たって】

 上原専禄について全く無知であった私は、展示の構想・企画を練るよりもまず、彼とはどんな経歴、思想、業績を持った人物なのかを調べねばなりませんでした。高度情報化社会と言われる今日ですから、いとも簡単に知ることができるだろうと思いきや、彼についての情報源は非常に乏しい状況でした。普通、ある程度有名な人物には評論、伝記、解説書の類があるものですが、そういったものは終ぞ見つからず、僅かに人名事典に数行見出せる程度です。そんな中、唯一、専禄氏を知る手掛かりとなるものに、『上原専禄著作集』が評論社から出版されているとわかって、彼の思想、業績、更には法華信仰がどの程度あったか等、この全集のおかげで凡そのことを把握することができました。しかし、それだけでは展示の用に供することができません。幸い、この著作集の編者が専禄氏の長女・弘江さんで、今も京都に在住していることを知り、彼女に接触すれば未公開の資料、あるいは専禄氏にまつわるエピソードやゆかりの品々を快く提供していただけるのではなかろうか、と勝手な期待を秘めながら書簡にて協力を要請したのですが、結局つれなく拒絶されてしまいました。間を取り持っていただいた出版社の方の話によって後にわかったことですが、専禄氏は晩年、愛妻を亡くされ、その深い悲しみから亡妻の回向に専念すべく、東京の地を離れて京都に移り住みます。父・専禄亡き後、娘の弘江さんはその志を継いで御両親の回向を心がけ、ひっそりと暮らしながら今も著作集の編纂に専念しているのだそうです。

 御遺族の協力を得られなかったことで、はたと困ってしまった私はその後、専禄氏が学長を務めていた一橋大学、役員をしていたという日教組(日本教職員組合)更には彼が講演に赴いた先々の関係者等とアプローチして行きましたが、目ぼしいものとて無く、あったとしてもその提供には御遺族の了承を得ることを条件にされてしまいましたので、展示品の収集にはほとんど目途が立ちませんでした。そういうわけで、上原専禄コーナー自体の断念という最悪の事態も心によぎりましたが、質量ともに十分ではないながらも、制作委員の方々の御教示を受けて何とか完成までこぎつけることができました。

【上原専禄とは】

 さて、その上原専禄のことですが、彼はもともと現一橋大学で中世西洋史を専攻とする一教授だったのですが、昭和二十一年学長に選出されてよりその活動が目立ち始め、時あたかも終戦直後、新制大学への移行期という状況もあり、学長として大学の自由、民主的な運営の実現に奮闘し、また同大学を社会科学の総合大学に発展させるべく国立大学で初めて社会学部を創設するなど、意欲的に改革を進めていきます。しかし、その理想主義的なやり方は内外からの反発も少なくなく、一期限りで学長を辞任することになってしまいました。この大学改革に伴った困難・苦悩の体験から、やがて彼は広く国民一般、社会一般に対する意識の啓蒙・教育の確立の必要性を痛感し、日教組の設立した国民教育研究所の所長や、知識人と労働者を結ぶ国民文化会議の議長を歴任するなど、その活動が次第に広範にわたっていきます。

 また当時、朝鮮戦争の勃発、核開発競争など冷戦構造の激化に伴う国際情勢の中で、人類存続の危機感を強く抱いた専禄氏は、平和の問題を訴え、いわゆる60年安保闘争では定年間近にもかかわらず教授職を辞してまで参画し、単なる学窓の人としてではなく、積極的な発言と行動を展開していきました。
 安保闘争以後、状況の変化と共に周囲の人間が妥協や転身をしていくのに失望した彼は、七十歳となる昭和四十四年春、愛妻が不遇の死を遂げたことを契機として東京の地を離れて京都にひっそりと移り住みます。その期するところは、より本質的に人間のあり方、社会のあり方を見直すべく、大聖人の諸御書を研鑚し、その教え、お振舞いの中に答えを求めるためでありました。そして、その集大成として、『死者・生者―日蓮認識への発想と視点―』を発表し、昭和五十年十月二十八日、七十六歳の生涯を終えたのです。
 その死は遺言によってか公表されず、死後三年八ヶ月にしてようやく世間の知るところとなりました。

【専禄にとっての大聖人】

 専禄氏は、自分にとって日蓮大聖人とは、

○私が私自身を知覚する以前において既に私に与えられていた擁護者的聖者であり、
○私の生涯のあらゆる時期において私の質疑に解答を与えてくれようとした教師的人格であり、
○苦境と難局に私が遭遇するごとにそれらを克服する視点と方策を私たちに示唆してくれた導師的存在である

と端的に言い表しています。
 上原家がもともと日蓮宗であったことから、専禄氏は既に幼少時より大聖人を身近に感じられる環境にありました。やがて多感な青年期を迎えるにつれ「私にとって日蓮とはどのような意味を持つ存在であるか、与えられたものとしてではなく、自分の信仰として内面的にどう捉えるべきか」そう意識するようになり、それが後に歴史学の勉強をはじめとするあらゆる読書・研究・思考の出発点となったと回顧されています。自分に対し大聖人は何を語りかけてくれるのか。また
、その姿勢から自分は何を学ぶべきか。その回答を得るべく真摯に仏法に向き合った専禄氏には、常に温かく包み守り、教え導いてくれる大聖人が生き生きと感じられていたに違いありません。そして同時に、その御教示に自分はどのように答えていけるかを考えていたことでしょう。

 生前、専禄氏は大聖人に関する論稿を相当数執筆しましたが、その論題には『日蓮を現代にどう生かすか』『日蓮上人と現代』など、現代に関連付けて述べられたものが多くあります。思えば、専禄氏の社会に対する積極的な活動はまさに大聖人の御教えと御精神をいかに現代に蘇生させようとしたか、その現われだったのかもしれません。


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