>>> 第7回 檀越に対する不断の励まし

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継命新聞・第512号掲載(平成13年8月15日)
画像は、図録「日蓮聖人の世界」より転載

 宗祖大聖人の門弟には、その消息や御本尊脇書等から、現在百名ほどの名前を確認することができる。そのなかには六老僧と称される最高門弟から、入門してほどない青年僧までさまざまであるが、その多くが宗祖減後の教団を支えて行くべき人材であった。それゆえ、宗祖は時には厳しく、時には温かく、その人、その場に応じた教育を施されている。
富木夫妻あての消息文 (第一紙・漢文体)

 一方、宗祖の檀越にはおおよそ二百五十名ほどの名前を知ることができる。そのなかで特記すべきは、その三分の一程度の数をしめる女性信徒の存在であろう。また、その階層では御家人・地頭クラスの武士階級の者が多いが、なかには熱原の農民信徒のような存在も含まれている。これらの壇越たちは、当時の激動する日本の社会情勢に一同に翻弄され、またそれぞれが人生の問題を個別的に抱えていたが、宗祖はその生来のユーモアなども交えながら、法華経の選択とそれへの帰命を具体的に指導されている。

 今回はその一つの代表例として、「富城入道殿御返事」のご真蹟を取り上げてみたい。この手紙を与えられた富城入道は富木常忍という名前の武家で、大聖人にとっては最も早い時期からの檀越であった。

 一説には、立教開宗以前の修学期の宗祖を物心両面において援助したとされ、その後は宗祖に師事してその法華経信仰を純粋に信奉された。年齢的には富木氏の方が少し年長で、弘安五年十月十三日に宗祖は六十一歳で入滅されるも、富木氏の方はその後も長生きされて、永仁七年(一二九九)三月二十日に八十四歳の長寿をもって逝去されている。そして、それ以前に自分の館にあった持仏堂を法華寺という寺にあらため、みずから日常と名乗ってその寺院を運営されて行った。
富木夫妻あての消息文 (第二紙・和文体)

 それが現在の千葉県市川市に ある中山法華経寺という大寺である。
 写真上を見て分かる通り、この「富城入道殿御返事」というお手紙はたった二枚の紙に全文が書かれた短いものである。まず、それを拝読してみよう。

鵞目一結給侯了。御志者挙申 法花経侯了。定十羅刹守護御身 無疑侯歟(鵞目一結、給はり候ひ了んぬ。御志しは挙げて法花経に申し候ひ了んぬ。定んで十羅刹の御身を守護すること疑ひ無く侯か)。
 さては尼御前の御事、をほつかなく候由、申し伝へさせ給ひ侯へ。恐々謹言。卯月十日
 日蓮(花押)
 富城入道殿


 大体、このような文章が書かれている。大聖人の文字はそのおおらかなところが一つの大きな特徴であるが、この「富城入道殿御返事」の字は常よりもさらにゆったりとした大ぶりな字で書かれている。特に最初の鵞目の鵞という字などはひときわ大きく、ちょっと見では二つの字が書かれているのでは、と勘違いするほどである。

 さて、この文章全体の意味を取ると次のようになる。
 最初に鵞目一結、この鵞目とは当時流通していた中国の銅銭で、丸くて真ん中に四角い穴があいており、それが鳥の鵞鳥の目によく似ているところから、お金のことを鵞目と当時は呼んでいた。そのお金が一結、一結とはそのお金の穴に紐を通して約一千枚を一まとめとしたもの。よって、ここでは富木氏に対して、御供養のお金一千枚を確かに頂戴いたしました、と最初に記されている。
 社会的な条件等が全く違うので単純に比較することは不可能であるが、一往銅銭一千枚の価値を今のお金に換算すれば、大体八万円から十万円の価値があったものと言われている。
 そして、その御供養の志ざしをねんごろに法華経に申し上げましたので、法華経の行者を守護することをみずから誓った十羅刹女が、必ずやあなたの御身を守ってくれることでありましょう、と言われている。
 ここまでが右の一枚目の紙に書かれている部分である。そして、その次から第二枚目の紙に移り、さて尼御前の御事、尼御前とは富木氏の奥さんのこと。その尼御前のことを私・日蓮が非常に心配しておりますことを、奥様にあなたより申し伝えてくださいますよう、お願いいたします、恐々謹言、と、大体このような意味になる。

 特にむつかしい言葉もなく、御書としては非常に簡潔でわかりやすい内容である。
 しかし、あらためてこのご真蹟を拝見すると、非常におもしろいことに気がつく。それは二枚の紙のうち、第一紙は漢文体で書かれているの対して、第二紙は和文体、つまり当時の日本語文で書かれているのである。これはどういうことであろうか。富木氏に与えられた他の御書などを含めて考えてみるに、一往は全文が夫の常忍あてであるが、おそらく後半部分は実質的に夫人の富木尼に向けて書かれているのであろう。それゆえ富木尼が読めるようにと、わざわざやさしい日本文を使って書かれているのである。

 これは非常におもしろいことであるが、このような夫婦それぞれに違った文体でもって書き分けるというのは、今のところこの富木夫妻あての手紙にだけ見られる特徴である。 私たちは、そのような事実から、次のような二つのことを知ることができる。一つは大聖人が持たれている非常に細やかな心遺いというものである。普通、日蓮聖人といえば、強く、たくましく、剛毅で、激しく、不屈な闘争精神というような、どちらかと言えば豪放磊落なイメージが喧伝される。しかし考えてみると、このような強くて堅い一方だけではあれはど数多くの弟子や檀越が慕い来ることはないのであり、やはりこのような本当に繊細な心遣いや、人一倍優しく、柔らかい、そして独特のユーモアがあってこそ、あのような強い師弟・師檀のつながりができあがるのではないか、と思う。
富木常忍ゆかりの中山法華経寺

 そして、もう一つは宗祖にとっての富木尼御前という人の存在である。夫の富木常忍はその豊富な学殖もあいまって、宗祖の教義・信条の最も良き理解者であったが、富木尼御前はその富木氏の後妻といわれている。宗祖の最高門弟である六老僧の一人・日頂師はこの富木尼御前の子供であり、その日頂師を連れて富木氏のもとに嫁いだというように伝えられている。そして、他の御書から推察するに、大聖人はどうも若い時に夫の富木氏の援助とはまた別に、富木尼御前の世話をいろんな形で直接受けられており、その大恩に報いることを非常に強く願われていたようなのである。

 この頃の富木尼御前はかなり重い病気にかかられていたようで、大聖人は数多くの手紙の中で必ず尼御前の病いの回復を祈願されている。「さては尼御前の御事、をほつかなく侯由、申し伝へさせ給ひ侯へ」と、たったこれだけの短い言葉であるが、宗祖はやはりこれを直接富木尼御前に読んでもらいたかったのだと思う。日蓮は尼御前のご病気のことを案じて、いつも法華経にその回復をご祈念しております、という気持ちを直接伝えたかったのではなかろうか。それがこの文章を富木尼御前が読めるようにと、漢文ではなくわざわざ日本文で書かれた理由だと、私は思う。

 そこで、このお手紙を頂戴した際の富木氏夫婦の様子を想像すると、次のようになるだろうか。手紙のあて先はご主人の富木氏になっているので、最初は当然富木氏が読まれるが、読み終えた後に横で臥せっておられる尼御前に向かって、「ご聖人がそなたのことをこのように案じておられるぞ」と声をかけて、この御書を見せられる。すると病床にあった尼御前は体を起こして、「さては尼御前の御事、をほつかなく侯由、申し伝へさせ給ひ侯へ」という大聖人のこの文字を読まれて、そこで何事かを心に感じられるという、そんな様子がこのご消息を拝見していると目に浮かんでくるのである。

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